40にして惑うこと-不不惑
こんにちは。ソフモです。
僕は今40歳。
孔子によると不惑の年である。
現代においても会社員であれば管理職になったり、フリーランスでも結果を残してステップアップしている脂が乗った時期である。
最近、僕の周りではこの手の話が増えるようになった。誰が何したとか、どうなって有名だとか。大学に残った友人は准教授になっていたり、企業に入ったものは部長になっていたり、会社を起こして社長として世の中にサービスを提供している者もいる。カメラマンだったら自分の名前で仕事が取れるようになっていたり、今までやってきた専門的な知識を元に教室を開いて盛況になっていたり、編集者はいつの間にか編集長という肩書きでメディアにコメントしたりしている。落語家で真打ちとして人気を博している同期もいるし、年下が役員になってもいる。ちなみに仕事場の上長は年下だ。
若い頃、将来きっと自分は輝いているのだろうなと思っていた。
世の中にはたくさんの人がいて、輝いている側にいるのだろうなと思っていた。
それがどうした。今現在。僕は何をしているのか。
それなりに仕事をしてそれなりの給料を得て、毎日不自由なく過ごしてはいる。
もう少し所得が上がったらいいいなとは思うけど、上を見ても仕方ないし、現実問題ない。
でも輝いているのかと言われたら、他人の方が輝いて見える。
あんな人生歩んでみたいなと、20歳前後で考えていたことが、40にしても思うのだ。
でも確実に年は重ねている。二十年も過ぎたのに、僕は何も残していない。
結婚して、子供が生まれて、楽しい毎日は過ごしている。だから残していないわけじゃないと自答することもあるが、違うんだ。
大学の友人と話すことが怖い。
あの頃はどうだったよね、今あいつ何してるか知ってる?
そんなことどうでも良い。
自分は何も変わっていないのだから。
あの頃にはあと二十年先という未来があった。
でも今はその未来は消費してしまった。
僕には今何も残っていない。
焦るんだ。
他人に羨まれる人になりたい。でも成功している人になりたいわけではない。そりゃ貧乏にはなりたくないから失敗もしたくない。
何かにのめり込んでチャレンジしている人がかっこよく見える。
そんな自分になりたいとずっと思っている。
でもその「何か」はインパクトがあることがいいし、見た目がかっこいい方がいい。そのように何かさえも選んでしまう客観的な自分がいる。
チャレンジするということは、何かリスクを侵すこと。
でも、そのリスクは現実の生活を考えると取れなかった。
「でも」って今何回書いた?常に自分が決めて、「でも」の方向に進んでいるのは自分じゃないか。
そのリスクを取らなかったツケは今に繋がっている。
人生は地続きである。
今やっていることしか、その先に繋がらない。
だったら今やっていることを変えるしかないじゃないか。
そう思って何年たったよ。
この先も同じ思いでいるのか?
でもでもでも。でも。
40にして不惑というが、僕は惑いっぱなしです。
かっこいい大人になりたい。